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【概要】
中国の都市部に住む友人が「国学(guoxue)」に傾倒し、いわゆるスピリチュアルな学びに参加している様子をきっかけに、その背景や違和感について語った内容である。
著者の友人は、北京から離れた静かな地方都市に移り住み、SNSでは国学や仏教哲学などに関心を深めている様子がうかがえた。友人は著者に「古典中国語のテキストを読む読書会」に参加するよう勧めてきた。友人は職場での燃え尽き症候群や方向感覚の喪失といった苦境にあり、著者はその姿勢を尊重し、興味と心配の両方から参加を決めた。
しかし、著者は国学ブームに対して以前から違和感を抱いていた。伝統文化に触れることが、過度に商業化・形式化されていると感じていたためである。
初回のオンライン読書会では、参加者が自己紹介を行った。最後に発言した年配の女性は、グループ内で指導的立場にあるようだった。彼女は若者の参加を歓迎しつつ、「今どきは誰も本を読まないが、あなたたちは時間がある。人生はただの飲み食いではない」と述べた。この発言には、日常の喜びを軽視するような含意があったと著者は感じている。
さらに2回の参加を経て、著者は読書会の内容に耐えられなくなった。その理由は、創設者の著書を音読して録音し、それを提出するという新たな課題が出されたことだった。そこには議論も質問も許されず、ただ反復するだけという形式だった。その目的についての説明もなかった。
西洋哲学を学んだ著者にとって、テキストに対する正しい向き合い方は、分析し、問いを立て、議論することである。しかしこの読書会では、それらが禁じられていた。著者が離脱の意向を伝えると、友人は「上司に確認する必要がある」と返答した。このやり取りによって、著者はその組織の性質をさらに疑問視するに至った。
【詳細】
都市部に暮らす中国人の一部が「国学(guoxue)」と称される伝統文化の学びに惹かれ、その一部が結果的にスピリチュアル商法や疑似宗教的な団体へと取り込まれていく傾向について、筆者自身の体験をもとに批判的かつ慎重に描写している。
筆者の友人は、北京を離れて静かな地方都市へと移り住み、SNS上では「国学」や仏教哲学といった精神的探求に熱心な様子が見て取れた。ある日、その友人からWeChatで連絡があり、「古典中国語の読書会」に誘われた。「絶対に気に入るはずだ」と勧められた筆者は、彼女が直面していた仕事上の燃え尽き症候群や人生の迷いを背景に、何らかの精神的支えを求めていることを理解していたため、興味と配慮の気持ちから参加を決めた。
だが、筆者は以前から「国学」ブームに対して一抹の疑念を抱いていた。「啓蒙への道」として語られるこの潮流が、伝統的なシンボル――たとえば漢服や香、古代の知恵といった文化的意匠――に過度に依存し、それらをパッケージ化・商品化することで、精神性よりも表層的な演出が先行している印象を受けていた。
読書会の初回のビデオセッションでは、参加者が自己紹介を行うことになった。年長の女性が最後に発言し、「今の若者は本を読まない。でも、あなたたちは読書の時間を持てる。人生はただの飲食ではない」と語った。その発言は一見すると歓迎の意に満ちていたが、裏には現代的な娯楽や日常の楽しみを蔑視するような価値判断がにじんでおり、筆者はそれに薄ら寒さを覚えた。すなわち、人間の基本的な喜びや、身体的な快楽を「低俗なもの」とみなすような、ある種の禁欲主義的道徳観が、柔らかくも押し付けられていたのである。
さらに2回の参加を経たところで、筆者の違和感は決定的なものとなる。主催者から「創設者の著書を音読して録音し、それを提出する」という新たな課題が出された。しかも、その読書は「理解を深めるため」と説明されつつも、なぜそれが理解に繋がるのか、理論的説明は一切なかった。加えて、録音内容に関する討議も質問も認められておらず、ただ機械的な反復だけが求められた。