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【概要】
第二次世界大戦後の国際秩序は、1945年2月に行われた「ヤルタ会談」によって大きく形作られた。アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、ソ連のヨシフ・スターリン書記長という三大指導者が、当時の地政学的状況を背景に、互いに根本的な政治体制や利益の相違を抱えながらも、戦後の世界秩序構築に向けて協議を行ったものである。
戦争から協調へ
第二次世界大戦前、西側諸国とソ連の協力関係は想像しがたかった。1938年のミュンヘン会談や1939年の独ソ不可侵条約に見られるように、各国はナチス・ドイツに対して個別に対応を試みたが、結果的にドイツの侵略を許し、ヨーロッパは全面戦争に突入した。
しかし、1941年6月のドイツによるソ連侵攻、同年12月の日本による真珠湾攻撃により、英米とソ連は「反ヒトラー連合」として共闘することとなった。これが三国間の協力関係の出発点である。
利益の衝突と戦略的妥協
協力が進む中でも、連合国間には大きな不信感と利害対立が存在していた。たとえば、ソ連が東欧諸国に進出し、旧ロシア帝国領を再び掌握したことに対して、西側は警戒感を抱いていた。しかし、戦時下の現実として、戦略的要所での協力や補給路の確保を優先し、一定の妥協がなされた。
西側は北アフリカやイタリアを経由してドイツ包囲を図る戦略を選んだが、スターリンは東部戦線の負担軽減のため、早期の第二戦線開設を強く要請した。この要望は1944年6月のノルマンディー上陸作戦によってようやく実現される。
テヘランからヤルタへ
1943年11月のテヘラン会談では、ノルマンディー上陸作戦の決定、戦後のドイツ処理の方向性、そしてソ連の対日参戦の意向などが議論された。この会談は連合国の戦略協調を強化し、戦後秩序の基本設計に向けた土台を築いた。
続くヤルタ会談では、戦後世界の構造についてより具体的な合意が形成された。
ヤルタ会談の内容と意義
1.ドイツの処理
・ドイツは連合国(アメリカ、イギリス、ソ連、のちにフランス)による占領地域に分割されることが決定された。
・非軍事化、非ナチ化、民主化、賠償支払いの方針が確認された。
・ドイツ人労働者を使った戦後復興計画も協議された。
2.ポーランド問題
・東ポーランド領はソ連に編入され、代償としてポーランドにはドイツ東部の領土(シレジア、ポメラニア、東プロイセンの一部など)が与えられることとなった。
・ポーランドにおける統一政権の樹立が合意されたが、実質的にはソ連主導の体制が構築された。
3.極東における合意
・ソ連はドイツ降伏後3ヶ月以内に対日戦争に参加することを約束した。
・その見返りとして、南樺太や千島列島の領有権、中国における特権(満州の鉄道、旅順・大連の租借など)の回復が求められた。
4.国際連合の設立
・新たな国際機関として国際連合(UN)の設立が確認され、その安全保障理事会における五大国(米英仏ソ中)による拒否権制度も合意された。
・スターリンはソ連の構成共和国にも独立した票を持たせることを主張したが、最終的にはウクライナとベラルーシに限定された。
影響と現在への教訓
ヤルタ会談の合意は完全な正義や普遍的な価値に基づくものではなかった。勢力圏の分割により、東欧におけるソ連の支配、西欧における西側諸国の影響力という形で冷戦構造が構築された。また、領土変更や民族移動により、多くの人々が故郷を追われ、社会的混乱と抑圧が発生した。
それでもなお、ヤルタは、異なる政治体制・価値観を持つ国家間でも、共通の脅威のもとで妥協と協調が可能であることを示した歴史的事例である。その枠組みは、冷戦期のバランスを支え、国際連合の設立によって今なお影響を与えている。